| 上賀茂神社(賀茂別雷神社) | |||
![]() 一ノ鳥居 ![]() 二ノ鳥居 ![]() 細殿と立砂、1628年造営、重要文化財、かつては天皇、 上皇、斎王のみが昇殿を話許されていた。 ![]() ![]() 楼門は江戸時代のもので1628年造営。入母屋造、桧皮葺。玉橋、楼門は透廊を通し神山を遥拝することができる。 ![]() この手水舎は、「神山(こうやま)湧水」といわれている。2007年12月より地下30mの井戸水を利用している。 飲用水としての水質検査にも合格しており、市民団体「上賀茂と森と緑の保存会」により井戸が掘られた。 ![]() 境内に掲げられた巨大パネル六曲双屏風「源氏物語車争図」(2008.5)、元絵は、江戸時代中期土佐派の画家によって描かれた。京都市歴史資料館所蔵の原本を、高さ5m、横17mに拡大した。
川の流れ、名称の変化
|
上賀茂神社は、京都市内の北部、洛北の地にある。境内は69万平方メートルの広大な社域を有している。 正式には賀茂別雷(かものわけいかずち)神社といい、皇城鎮護の神として崇拝された。祭神は、賀茂別雷で、水、農林業、醸造、養蚕、機械、方除などの神。神仏霊場会に参加。 1994年、「古都京都の文化財」17の資産(社寺城)の一つとして、世界文化遺産に登録された。 歴史 上賀茂神社は、上賀茂社、上社(かみのやしろ)とも呼ばれ、下鴨神社と総称して賀茂社ともいわれた。 古代山背国に移り住んだ鴨(賀茂)族の氏神を祀る。賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)を祖神とする賀茂県主(あがたぬし)族は、大和国葛城賀茂より山城国に入り、山代川(木津川)、岡田の賀茂(相楽郡)、桂川と鴨川の合流点と北上し、久我国(上賀茂地区)に到達し、この地を開拓したと伝えられる。 文献の初出が「続日本紀・類聚国史」(698)で、平安京造営よりさらにさかのぼり、1300年以上の歴史を持つ。 社伝では、677年に社殿造営したとある。750年頃に、下社(下鴨神社)が成立したとみられる。平安遷都(794)後、王城鎮護の神となっている。平安中期より21年毎の式年遷宮が執り行われている。 810年、斎院の制がしかれた。社領地は785年以来、愛宕郡封戸を与えられ、賀茂六郷はその中心となった。だが、中世には、その大半が他領地となった。 明治期(1871)官国幣社の制により、官幣大社に指定された。 賀茂伝説 川にまつわる伝承がある。祭祀権を与えられていた祭神・玉衣日姫命(たまよりひめのみこと、玉依比売命)は、貴布祢神の本殿から流れ出る貴布祢川を水源としている瀬見の小川(鴨川)で、丹塗(にぬり)の矢が流れ着いたのを見つける。 これを持ち帰り、床に差しておいたところ、やがて孕み、男児が生まれた。子は賀茂別雷神と名づけられ、上賀茂神社の祭神となった。雷神は水をもたらす、五穀豊穣の神として崇敬された。 賀茂別雷神の父は火雷命(ほのいかずちのみこと)。祖父は賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)、祖母は神伊可古夜日女(かむいかこやひめ、丹波神伊可古夜比売命)。 また、楢の小川の左岸には、摂社・奈良神社があり、神饌を司る神・宇莫迦之御魂神が祀られている。 源氏物語 紫式部の『源氏物語』第9帖「葵」の巻には、賀茂祭(葵祭)の御禊の日、一条大路での葵の上と六条御息所(みやすどころ)の牛車の位置争いの場面が描かれている。 懐妊した葵の上(光源氏の正妻)と愛人・六条御息所の確執が起こる。葵祭見物で、行粧に参列した光源氏を見ようと車の止める位置を巡って争い、御息所の車は退けられる。見物人の中で恥をかかされた御息所は生霊となって葵の上に取り憑く。葵の上は病に伏し、夕霧を産み息絶える。 また、第54帖中「帚木」から「若菜」に登場する朝顔の姫君は、賀茂斎院の設定になっている。 また、 第一摂社・片山御子神社(かたおかみこ、片岡社)には、紫式部が恋愛成就の祈願に参詣している。「ほととぎす 声待つほどは 片岡の もりのしづくに 立ちやぬれまし」(紫式部、新古今和歌集) 賀茂季鷹 賀茂季鷹(かもの すえたか、賀茂長命、1752-1842)は江戸時代の著名な歌人で、上賀茂神社の祠官であり、貴船社にも奉仕した。御幸町二條北に住み、門流も栄えた。 神宮寺 中世の頃、片岡社の南には神宮寺があり、多宝塔、観音堂、鐘楼などが建ち並んでいた。 また、それより以前には聖神寺という寺も存在していたとみられている。 流造 本殿は切妻造の正面軒が長い流造(ながれづくり)となっており、流造の様式の起源となっている。 森 鎮守の森の久我の森は、76ヘクタールあり、コナラ、ケヤキ、シラカシ、エノキ、ムクノキ、クスノキ、スダジイなどがある。神社の背後にある神山(こうやま、御阿礼山)はご神体。南東部には片岡山(片山)の片岡の森が広がり、ここは摂社・片山御子神社のご神体となっている。 境内の森は、第二次世界大戦までは、本殿奥にさらに広がっていた。戦後、進駐軍に接取され現在はゴルフ場となっている。 フタバアオイ 葵祭に欠かせない神紋フタバアオイ(ウマノスズクサ科の多年草)は、かつては境内に自生していたという。現在は見られなくなったため、北区の山林から採取している。また、「葵の森」と名づけられた森が保護され、フタバアオイが栽培されている。近くの上賀茂小学校、市民などにより、栽培に協力する動きも次第に広まっている。 川 境内にはいくつかの川が流れている。神宮寺山の北にある蟻ヶ池、小池を水源(?)とするという御物忌(おものい、おものいみ)川は、神事で用いる祭器類を洗い清めるために使われた。 鴨川を源流とし、上賀茂神社境内で御生所(みあれどころ)川、御手洗(みたらい)川と名を変える川がある。御手洗川は人を清めるために用いられた。御物忌川と御手洗川は合流後、さらに、ならの小川(奈良の小川、楢の小川)と名を変え、社を出てからは明神川となり、社家町を流れ再び鴨川に合流する。 大正期までは、鴨川の氾濫に備えて境内には、「蛇籠」(じゃかご)というのが常に置かれていた。筒状の竹篭に石を詰めたもので、洪水の際に太鼓が鳴らされると、蛇籠や樹木を用いて氾濫を防いだという。 ならの小川では葵祭にあたり、下鴨神社と隔年交代で斎王代がみそぎ神事を行う。また、夏越の神事(6月30日)も行われている。 小倉百人一首の「ならの小川」について藤原家隆は、「風そよぐ ならの小川の夕ぐれは みそぎぞ夏の しるしなりける」と、平安時代の神職がみそぎをした際の情景を歌った。 渉渓園で行われる「賀茂曲水の宴」(4月第2日曜日)は、ならの小川からの分水(沢田川)を使い、かつて宮中で行われていた雅が再現されている。 沢田川では、競馬会(くらべうまえ)の御鞭洗いの儀も行なわれる。この競馬会は、もともとは賀茂の神の祟りを鎮めるために、馬に鈴をつけて走らせたことが起源ともいわれる。 ならの小川では、ゲンジボタルの放生が行なわれており、近年、ホタルが生息している。5月下旬からホタルの飛翔を見ることができる。 祭礼 平安時代から続く5月5日の競馬(くらべうま)、下鴨神社とともに行なわれる5月15日の賀茂祭(葵祭)、その前、5月12日に行なわれる重要な神事・御阿礼(みあれ)神事、9月9日の重陽の節供に行なわれる烏相撲の神事などがある。 烏相撲は、農耕儀礼の一つと見られている。賀茂建角身命の化身という八咫烏(やたがらす)が、神武天皇を熊野から大和へ導いたという伝承により、烏と賀茂社のゆかりは深い。 5月15日、境内で、疫病を退散させるための祭礼であり、重要無形民俗文化財「上賀茂やすらい花」が、上賀茂やすらい踊保存会によってとり行われる。 最寄の橋 御薗橋から東へ |
||
![]() |
|||
明神川流路 |
![]() |
||
![]() ならの小川 |
|||
![]() 境内を川が流れる"水の社" |
![]() |
||
![]() |
![]() |
||
![]() 一ノ鳥居 |
![]() ならの小川 |
||
![]() 丸山(中央の小山、149メートル)、西麓に「御阿礼所、御生所、みあれ所」がある。 神奈備山(神体山)である神山(こうやま)は、上賀茂神社の北、さらに2キロほどのところにある標高301メートルの小山。山頂はカモのカミの磐座(いわくら)で、巨岩が環状に並ぶ「垂跡石」(すいじゃく)があり、禁足地となっている。5月12日の夜、御阿礼(みあれ)神事が行われ、御休間木(おやすまぎ)に神山から神霊を迎え、本殿のご神体に神威をこめるために行われる。現在は社に近い丸山(153メートル)で行なわれている。 |
![]() 神山をかたどった立砂、神の依り代となる神籬(ひもろぎ)。白川砂の先端には松葉がさしてある。斎砂を撒き清める風習はここから始まった。平安遷都以前、まだ拝殿のない時、ここには二本の御柱が立てられていた。その根元を固めるための盛土の名残りともいう。正月飾りの門松の起源ともいう。 |
||
上賀茂神社からは見えない。 |
![]() 鎮守の森、片岡山 |
||
![]() 国宝の本殿、西に同じ形の権殿(社殿造営の際に御霊代を一時奉安する仮殿)、1863年造営、三間社流造、桧皮葺。この背後に神体の神山が控える。 |
![]() 高倉殿 |
||
![]() 橋殿(舞殿) |
|||
![]() 渉渓園、1960年に平安時代末期の庭が再現されている。かつてこの地には、神宮寺の小池があったという。水は、御手洗川の参流沢田川から引かれている。曲水の宴では、管弦の弾吹奏のもと、詩歌の吟詠が催され、平安朝の神遊びが再現されている。また、葵祭に欠かず神紋ともなっているフタバアオイも自生させる試みも始まった。 |
![]() 渉渓園 |
||
![]() 神馬、「神山号」 |
|||
![]() フタバアオイ |
![]() フタバアオイの花、実生、株分けでも増える。 |
||
![]() ![]() 片山御子神社(かたおかみこ、片岡社)、第一摂社、祭神は賀茂県主族の祭祀権を握る巫女としての玉衣日姫。本宮のすべての祭祀は、まずこの社に奏し、祭儀は玉衣日姫の名によって執り行われるという重要な社。社の後ろにかつて、「よるべの水」をたたえた甕三個があったというが、天正年間に地下埋められたという。 「"賀茂にまうでて侍りけるに、人のほととぎす鳴かなむと申しけるあけぼの片岡の梢をかしく見え侍りければ" ほととぎす 声待つほどは 片岡の もりのしづくに 立ちやぬれまし」(紫式部、新古今和歌集)『紫式部日記』(1008年11月1日)に宮中で詠まれたとの記述。 |
![]() 末社川尾社、御物忌川を守る神、祭神は罔象女神(みずはのめのかみ) |
||
![]() 御物忌川 |
![]() 御物忌川 |
||
![]() 御手洗川(左)と御物忌川は合流し、ならの小川(手前)となる。 |
![]() 社殿の北を流れている川 |
||
![]() 玉橋、1628年造営の木橋、神事には神職のみが渡る。 |
![]() 樟(くすのき)橋(長寿橋)、くすのきの化石の石橋 |
||
![]() 橋殿(舞殿)、1628年造営、重要文化財、桧皮葺入母屋造、葵祭りの際に勅使が御祭文を奏上する、東遊びも行われる。川はならの小川。 |
![]() 土屋、桧皮葺入母屋造、祭典奉仕の祓い所、ならの小川。 |
||
| 片岡橋、1628年造営、唐破風屋根の木橋。 | |||
![]() ならの小川 |
![]() 社では、ゲンジボタルの放生が行なわれている。そのため、例年6月初旬から、ならの小川でゲンジホタルが舞う様子を目にすることができる。 |
||
![]() 土屋と背後は片岡山、土屋は祭事で、神職が穢れを祓い川を渡って神域に入る。 |
![]() 外幣殿 |
||
![]() 土屋 |
![]() 北神饌所(庁屋)、かつての神饌調進所、中古政所。競馬会神事、能舞台にも使われる。1628年造替。 |
||
![]() 楽屋(がくのや)、1628年造営。神仏習合時代に供僧方が用いた。「一切経楽屋」ともいう。 |
|||
![]() ならの小川藤原家藤原家隆隆の歌藤原家隆碑 |
![]() 藤原家隆歌碑 「風そよぐ ならの小川の 夕ぐれは みそぎぞ夏の しるしなりける」 |
||
![]() 岩上(がんじょう)、葵祭の際、宮司が勅使に対して返祝詞を申すところ、原初神道の形を残している。 |
|||
![]() |
![]() |
||
![]() 境内背後の山では、最近京都市内でも被害が拡大しているカシノナガキクイムシによる広葉樹の樹木枯れに対応するために、生物分解性の防虫シートが施されていた。(2007) |
![]() 葵の森。葵祭に欠かせず上賀茂神社の神紋ともなっているフタバアオイ(二葉葵)保護、再生の試みも始まった。かつては、境内に広く自生していたという。 |
||
![]() 武射神事(1月16日)、裏に「鬼」と書かれた的を射て年中の邪気を祓う。続いて大的式、百手式の奉納。 |
![]() 紀元祭蹴鞠奉納(2月11日) |
||
![]() 6月30日、ならの小川で行われる夏越大祓(なごしのおおはらえ)・人形(ひとがた)流しによって半年の罪・穢を遷す。 |
![]() 夏越大祓、茅輪(ちのわ)のくぐり、穢れを祓い無病息災を祈る。 |
||
![]() 烏相撲 |
![]() 烏相撲 |
||
![]() |
|||
![]() 御所桜 |
![]() 斎王桜 |
||
![]() 樹齢250年のイチイガシ |
![]() 馬場脇に生える「見返しの桐」は、この地点で競馬会(くらべうまえ)の際に、乗り手が馬上の姿を整える。ほかに、出発点に立つ「馬出しの桜」、鞭を入れる「むち打ちの桜」、勝敗が決する地点にある「勝負の楓」など、競馬会に関して目印となる場所には樹木が植えられている。 |
||
![]() |
社の西、「やきもち」(葵餅)で有名な神馬(じんば)堂、北区上賀茂御薗口町西 要予約 075-721-0090 075-781-1377 現在の店は、明治期(1907ころ)に創業された。もともとは、御薗橋東詰にあった初代・山本家(1872)という店から暖簾わけされた。屋号は、上賀茂神社境内の神馬小屋の側に茶店を開いたことによる。葵餅を売っていた。葵は、上賀茂神社の神紋に因んでいる。名物の餅餅は、黒砂糖を使った小豆のつぶしあんを鉄板で焼いている。 |
||
| (c) Copyright Everkyoto,Kyoto Kamogawa fuko, 2006- |
|||