下鴨神社(賀茂御祖神社)
 




南口鳥居


参道、全長は1キロメートル近くある。






楼門、1628年造、入母屋造、桧皮葺。




井上社(御手洗社)


樹冠

糺の森の開放地「神の游庭」(かんあそひのゆにわ)。表参道の両側に設けられ、参拝者が緑と触れ合い、対話することができるようになっている。クスノキ、ケヤキ、カシ、ヤマアジサイ、キキョウ、フタバアオイなども植栽される。このフタバアオイ(双葉葵)は神紋であり、「あふひ」の「あふ」は「会う」「ひ」は神の力を表し、神の力にあうことを意味していると神社には伝えられている。


御手洗、桶は森の主だった樹齢600年のケヤキと舟形磐座石(いわくらいし)



御手洗-三本杉、古くよりl糺の森の三本杉から湧水していたという御神水。1161年の記録「治承遷宮記」に、御手洗の御井に日照りの際に降雨を祈ったという記述も残るという。


糺の森に植えられているフタバアオイ
 下鴨神社は、賀茂川と高野川が合流する三角州に位置している。正式には賀茂御祖(かもみおや)神社といい、「下鴨さん」「下鴨神社」とも親しまれている。
 平安時代以来、「賀茂皇大神宮」「賀茂御祖皇大神宮」などと呼ばれ、明治期以来現在の呼称となった。また、上賀茂神社と総称し賀茂社、上賀茂神社と区別して、下社、賀茂下社とも呼ばれた。下賀茂(下鴨)とは、中世後期から呼ばれるようになった。
 祭神は賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)と、玉依姫命(たまよりひめのみこと)を祀る。世界平和、五穀豊穣、殖産興業、身体病難解除、方除、厄除け、入学、合格、交通、旅行、操業の安全、玉依姫命は安産、育児、水を司る神などの信仰がある。神仏霊場会に参加。
 1994年、「古都京都の文化財」17の資産(社寺城)の一つとして、世界文化遺産に登録された。
歴史 『続日本紀』にも記述(BC658)がある。崇神天皇の頃(BC90)、社の瑞垣の修造が行われたとの伝承がある。ただ、奈良時代の中頃(740-750頃、750頃とも)に、下社(下鴨神社)が上賀茂神社から分立したとみられている。
 下社は、もとは八咫烏の伝承を持つ地方豪族の賀茂県主であり、上賀茂神社の摂社だった。その後、摂社・三井社の白髪部氏に「鴨禰宜白髪部」の氏姓が与えられ、朝廷により分立が認められた。
 平安遷都後(794)は王城鎮護の社となった。794年、桓武天皇は平安遷都のために行幸している。平安時代には、山城国の一宮になっている。また、賀茂祭が勅祭(806)となり、賀茂の斎院(810)が置かれた。1036年以来、式年遷宮の制により、建物は建替えられ、途中、戦乱、経済状況により遅滞したこともあった。
 10世紀、嵯峨天皇により、境内河合神社の北に神宮寺が建てられたといわれている。その後、明治の神仏分離令まで存在した。承知の乱(1221)、建武の乱(1336頃)、応仁・文明の乱(1467-1477)などの兵火に遭遇し、被災し、祭事も中断された。特に、応仁・文明の乱(1467-1477)では、社殿、糺の森の7割を焼失し、宝物などが略奪されたが、そのたびに復興を重ねてきた。
 本殿は1863年に再建されている。明治期(1871)官国幣社の制により、官幣大社に指定された。  
祭神 賀茂(鴨)氏とゆかりのある祭神・賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)は東神殿に、玉依姫命(たまよりひめのみこと)は西神殿に祀られている。
 賀茂建角身命は、上賀茂神社の祭神・賀茂別雷命の祖父になる。賀茂別雷命の母が玉依姫命(玉依日売)であり、祖父と母を祀る下鴨神社は、そのため御祖(みおや)神社といわれる。
 烏伝(うでん)神道(鴨神道)という信仰を持つ。祭神・賀茂建角身命、八咫烏(やたがらす)が伝えるとされるもので、森羅万象に生命が宿り、呼吸し、それらの相互の作用によって生命が生まれることを「御生」(みあれ)とする。
 古代の京都を拓いた氏族・葛野主殿県主部は、賀茂建角身命の先代、天神玉命を祖神としており、鴨氏と同じ氏族であったとされる。また、賀茂建角身命の子孫が鴨建角身命社を奉斎していたとされ、始源の社の一つと見られている。
 摂社には、出雲氏の祖神だった出雲井於神社(比良木神社)などがある。
式年遷宮 式年遷宮は、平安時代(980年代-1010)に始まった。この頃の京都は、天候不順、鴨川の氾濫、農作物の不作、政情不安、飢饉、疫病などが蔓延していた。そのため、朝廷は、下鴨神社で祈願したところ鎮静したことから、「成就した報養」として、1036年に式年遷宮の宣旨が奉じられ、1077年以来執り行われている。ただ、当初の300年以後は、戦乱や災害により、20年ではなく、30年、40年の間隔で行われたこともあったという。
斎院 賀茂大社には、飛鳥・奈良時代に巫女「斎祝子」(いむこ)が仕えていた。また、平安時代に「忌子」も奉仕した。さらに平安時代に、本宮西から鴨川にかけて女性神職の制度、賀茂斎院御所が置かれた。当時は賀茂の斎王(いつきのひめみこ)は、810年の嵯峨天皇の皇女・有智子(うちこ)内親王から、1221年の後鳥羽皇女・礼子(いやこ)内親王まで、35代、400年にわたり紫野の賀茂斎院に置かれ、賀茂社の葵祭などの祭事に奉仕した。
 天皇によってト定された斎王は、鴨川での潔斎を行い、大内裏内の初斎院で三年、さらに鴨川での潔斎の後、紫野の斎院(本院)で三年の禊を行った。斎王が葵祭の際に滞在するのが斎院御所だった。斎王は、糺の森・鴨川近くに建てられた神館(こうだち)に入った。ここでは、鴨の河原に設けられた「行宮」(かりのみや、河原屋)で、「河原祓」が行われた。その後、応仁・文明の乱(1467-1477)により多くの殿が焼失している。
 現在では、葵祭にあたり斎王代がみそぎ神事を行う。上賀茂神社を流れる「御手洗川」と、下鴨神社の摂社・御手洗神社前の御手洗池で、隔年交代で執り行われている。
社家 かつて相国寺、百万遍付近に社家の人々は住んだ。応仁の乱後、神社の西(松原町、森本町、西林町付近)に社家町が形成された。しかし、明治になって東京に移転する人も多く、その後道路の拡張工事などにより消滅した。
流鏑馬 葵祭は、欽明天皇(539-571)の時代に、天候不順で五穀が実らず、疫病が流行した際、賀茂大神の祟りを鎮めるために行われるようになったともいう。(『日本書紀』)。また、天皇は賀茂社に使いをやり、馬を馳せ(騎射、流鏑馬)、神人が面をつけ葛をつけて走り、豊饒祈願の祭りを行なったことに始まるともいう。この騎射は、あまりの人出に、698年には禁じられ、その後も度々禁止された。
神宮寺 神仏分離令(1868)以前、境内には護摩堂、読経所、神宮寺などが建ち、河合神社北の竜池に面して観音堂などがあった。神宮寺は天台系の寺院で、近代以前は限定的ながら神仏習合が成立していた。
流造 本殿は切妻造りの正面軒が長い流造(ながれづくり)となっており、流造の様式の起源となっている。
糺の森 下鴨神社と境内に広がる自然遊園・糺(ただす)の森は、清水の湧く処として、鴨川水源の神の地とされてきた。湧水と切芝の森自体が磐座であり、神の鎮まる地としてされ、平安時代には「神の游庭(かんあそひのゆにわ)」として、神と人との交感の場となっていた。
 森は、古代山背原野にあった原生樹林と同じ植生がいまも見られる。また、森周辺からは弥生時代の住居跡や土器が出土している。
 糺の語源として、「直澄」(ただす、清泉が涌く州)、「只州」(ただす、川の合流する三角州)、神の御座する地神が顕れる地(顕、たつ、出顕、たづ)、神が偽りを糺す地、蓼(たで)の群生地で蓼(たで)巣とする説、河合神社の祭神・玉依姫玉から「多々須」とする説がある。また、「河合(ただす)の森」ともいわれた。「新古今集」に「糺の森」の記載がある。太秦木島坐天照御魂神社(蚕の社)境内には「元糺の池」があり、下鴨神社との関わりがあるという見方もある。
 古くより、神域として樹木の伐採が制限されてきた。糺の森は、平安時代には150万坪の広大な敷地を有し、境内には200以上の社殿が建っていた。森では、七瀬の霊場として禊祓が行われた。中世以降は戦場にもなった。建武の乱(1336)では、足利尊氏はこの森に布陣した。天文の乱(1536)、応仁・文明の乱(1467-1477)などの際に、本殿、糺の森の樹林も焼失している。勧進猿楽の興行も行われた。近世では「糺の納涼(すずみ)」と呼ばれ、御手洗川に床が出され、庶民の憩いの場となった。また、明治の頃まで冬場の寒冷を利用し、この地で寒天を作っていた。
 森は、約12万平方メートルという原生林を形成している。だが、平安時代には、西は鞍馬口西岸、北は植物園北部、松ヶ崎、高野川辺りまで広がっていたと推定されている。天正期の検地(1583)では、151万平方メートルが確認されている。明治期の上知令(1871)以前でも、現在の2倍以上という広大な森が存在していた。
 森の構成は、落葉樹30パーセント、針葉樹20パーセントとなっている。特に、落葉広葉樹のケヤキ、エノキ、ムクノキなどの大面積のニレ科樹林は、かつて山城原野によく見られた樹種で、いまはここにしか残されておらず貴重な森となっている。これらは、鴨川と高野川の度重なる洪水による氾濫原に適している。
 さらにクスノキ、ブナなどの巨木、アラカシ、シラカシ、イチイカシ、イロハモミジ、カツラ、ヒノキなど40種、4700本の樹木が見られる。樹齢200年から600年の大木も600本ある。
 ヒオドシチョウ、ゴマダラチョウ、オオムラサキ、テングチョウ、アオスジアゲハなどの蝶、タマムシ、ウバタマムシなどの甲虫がいる。
 室戸台風(1934)で、森は壊滅的な打撃を受けている。また、1965年頃からの周辺の開発、河川の改修工事、排気ガスなどの影響により、森は衰微しつつある。糺の森は、国の史跡(1989)に指定された。山城原野であった頃の植生が今に残る森として京都府の「京都の自然200選」に選定された。
源氏物語 糺の森は、王朝歌人の諷詠の地となった。紫式部『源氏物語』や清少納言『枕草子』など、文学の舞台としても登場する。
 『源氏物語』のなかで光源氏は、須磨へ旅立つ前に、「うき世をば 今ぞ離るる 留まらむ 名をばただすの 神にまかせて」と歌った。
光琳の梅 江戸時代の画家・尾形光琳が描いた「紅紅梅図屏風」(国宝)のもとになったという梅が、2月中旬-3月上旬に開花する。
水・川 鴨川と高野川の合流する三角州に位置する糺の森には、森を育てる泉が湧き、川が流れている。かつては、つねに清水の湧き出る水源地として崇められていた。現在でも、境内には20あまりの井泉が湧くという。
 御手洗池から流れ出た川は「御手洗川」、橋殿の下をくぐり、本殿を出て「奈良の小川」と名前を変え、奈良殿橋からは「瀬見の小川」(鴨川の支流)として糺の森を流れ、河合神社の東を経て鴨川に合流している。かつては自噴していた湧水も1950年代に絶えたため、現在は井戸から汲み上げられている。
 境内東には、水量のある「泉川」も流れている。高野川の支流で全長2kmある。かつては松ヶ崎村に水源があり、鴨川に注いでいた。泉川とは、木津川の古名ともいわれている。また、川近くにあった和泉式部の家に由来しているともいう。泉川は、京都の河川の中で唯一、自然に近い河川として貴重な存在となっている。川にゲンジホタルを甦させる試みも、しだいに成果が出始めている。なお、毎年6月初旬の夜には、「蛍火の茶会」が催され、糺の森で集められたホタルが闇に放たれる。
 また近年の試掘調査(2000)により、古の小川(奈良の小川)の旧流路が発見され、祭祀遺跡など多数が出土した。その後、古の小川は復元されている。奈良の小川は、平安時代末から鎌倉時代に造られ、その後一度埋まり、江戸時代に現在の位置に移設された。当時の奈良の小川は、祭祀の川であり、泉川と瀬見の小川を結んでいた。
 

葵祭 葵祭・前儀式 上賀茂神社 河合神社 御蔭神社 檪谷七野神社 賀茂大橋 出町橋 「石村亭」下鴨泉川邸 壇王法林寺

最寄の橋 葵橋、出雲路橋
から東へ



楼門と回廊

鴨社直会(なおらい)殿泉聲、ここでは神せん、神に奉納した供え物を飲食する直会式が行なわれる。直会とは「居直る」の意。平安時代より式年遷宮ごとに建替えられてきた。第4回式年遷宮事業の一環として、2007年9月に59年ぶりに再建された。建材は伊勢神宮社殿の式年遷宮(1993)で取り払われた内宮、五丈殿のヒノキを再利用している。庭には紫珠(ムラサキシキブ)が植栽され、「紫式部の庭」も復元された。 

本殿中門


幣殿は1629年建立、重要文化財。この奥東本殿に玉依姫命、西本殿に建角身命が祀られている。いずれも1863年に再建された。

舞殿

神服殿

細殿

橋殿

摂社三井神社祭神中社・賀茂建角身命、東社・伊賀古夜日売命(いかこやひめのみこと)、西社・玉依姫命日売命

三井神社

摂社出雲井於神社(いずもいのへのじんじゃ)、比良木社(柊社)、祭神建速須佐乃男命(たけはやすさのおのみこと)、葛野主殿県主部(かずぬのとのもりのあがたぬしべ)が祖神、古代山城北部に関わり、鴨氏と同じ祖先。井於とは、出雲郷の川のほとりに座す社を意味する。

輪橋(そりはし)と御手洗池(神池)、池は、『京羽二重』(1685)では「糺清水」とあるという。


井上社(御手洗社)。賀茂祭(葵祭)斎王代の御禊は、この御手洗池で行われる。流し雛、土用の丑の日の御手洗祭、夏越祓の後の矢取の神事などもここで行われる。御手洗祭では、神水に足をつけると無病息災が得られるという。


御手洗池(神池)、現在は地下水がくみ上げられている。年間を通じて17度の水温という。かつて泉は自噴し、底からは大きな水泡が湧いた。この泡をかたどって、「みたらし団子」が生まれたともいわれている。団子5つが竹串に刺されており、上の一つだけ離れている。これを人の五体として頭と四肢とする。また、後醍醐天皇が水をすくった際に、池の泡の出方が、初めに一つ浮かんで、続いて4つ出たところから、この形が生まれたともいわれる。


 

流し雛

輪橋たもとにある「光琳の梅」、江戸時代の絵師・尾形光琳(1658-1716)が、この辺りを描いたといい、国宝・「紅梅図屏風(国宝)」がある。

解除所(げじょのところ)天皇の行幸、官祭などの際に解除(祓い)をしたところ

祭祀遺構復元(2003.3)、平安時代後期(12世紀後半)に造られた方状形の祭壇遺構、糺の森に復元された二つの石敷き遺構は、河原石の上に黄褐土が固められており、水に関する祭祀が行われていたと推定されている。

糺の森にある舩島(ふなしま)には、石組み井戸が復原(2009.4)された。平安時代後期、奈良小川に土を盛り上げて造られたとみられている。川と島頂部との高低差は約1・6メートル、井戸の直径約1・8メートル、深さ約1・7メートル。井戸は、雨乞いや雨止みの神事に使われる祭祀用だったと推定されている。

大晦日、新年

蹴鞠始(1/4)

流し雛(3/3)

御手洗池のホタル(6/7)

御手洗祭(足付け神事)7月27−30日、当日奉仕されるご神水


御手洗祭(足付け神事)7月27−30日、7月の土用の丑の日、境内の井上社に祀られている瀬織津比売命(せおりつひめのみこと)は罪、穢れを払いのける神。神池(かみいけ)に足をつけ、燈明に供え、御神水を飲むと諸病にかからず、延命長寿の霊験があらたかといわれる。江戸時代から始まった風習という。
 また、御手洗川(神池)で取れる黒石「鴨の神石」は、子どもの疳虫封じの効果があると伝えられ、この日に限り授与される。
 かつては井泉からの湧水があったがその後涸れ、いまは新たな井戸水が池に引かれている。

御手洗池で行なわれる夏越神事の矢取神事(8月6日)は、賀茂伝説の丹塗矢に由来している。池の中央に立てられた50本の斎串(いぐし)は竹に御幣を挟んであり、矢に見える。斎串は、厄よけ、開運、長寿などの御利益があるという。もとは田に斎串をさして、田の神を祀ったところに起源があるという。参拝者の名前を記した人形(ひとがた)がまかれると同時に、矢を激しく奪い合う。

賀茂斎院御所旧跡、かつてこの地には賀茂斎院御所があった。
その後戦乱で焼失し、大炊殿、御井、葵の庭、カリンの庭などが再興された。
また、薬草のカリン、ヌルデ、クチナシ、ヤマウコギ、ニシキギなども植えられている。

末社、右の東社・愛宕社(おたぎのやしろ)、左の西社・稲荷社
この地には、平安時代初期から室町時代に、賀茂斎院御所があった。愛宕社は賀茂斎院御所の守護神として御所に祀られていた。稲荷社も、忌子女庁屋(いんこのめちょうや)の守護神として賀茂斎院御所、庁屋の池庭の中島に祀られていた。応仁・文明の乱以後、相殿として旧知に祀られた。

末社、印納社、御璽社(おしでのやしろ)の祭神を祀り、古印を納め守護を仰ぐ。ここにも賀茂斎院御所が営まれていた。

相生社(あいおいやしろ)、縁結び、安産子育、家内安全

復活された古の奈良の小川



古の奈良の小川

輪橋、御手洗川

奈良殿神地(ならどのんみのにわ)、葵祭りの解除(お祓)の神事が行われた祭場

散策路、泉川(右)。散策路はかつて「烏の縄手」と呼ばれた。昔は境内に参道はなく、参拝者は思い思いに糺の森を抜けて参拝していたという。烏は祭神・賀茂建角身命の象徴八咫烏を意味している。その人道が、縄のように細く長いという意味で付けられた。2007年にこの「烏の縄手」が整備され、公開された。

泉川、例年6月初旬より、この付近ではゲンジホタルの群舞を見ることができる。

糺の森のゲンジボタル

奈良殿橋、奈良の小川

奈良の小川
泉川、6月頃にはホタルが舞う。


泉川、「きみがため 今日のみそぎに 泉川の 万代すめと 祈りつるかな」(藤原俊成、続新古今和歌集)


泉川

瀬見の小川
「石川や せみの小河の清ければ 月も流れを 尋ねてやすむ」
(鴨長明、新古今和歌集)



瀬見の小川


瀬見の小川

糺の森、「いかにしていかに知らまし偽りを 空に糺の上 なかりせば」、『枕草紙』中宮定子の歌

糺の森にある神宮寺(観音堂)、竜池跡、神宮寺は天台系の寺院で、近代以前は限定的ながら神仏習合が成立していた。
明治期の神仏分離、廃仏毀釈により、仏教色は一掃され、平安時代後期から続いた約千年の寺との関係は終焉した。





第一蹴の地、1910年、旧制第三高等学校の学生によって、日本発のラグビー試合がこの糺の森で始められた。
 

生石(いきいし)伝説の「さざれ石」
下鴨神社 界隈

加茂みたらし茶屋、こちらで、みたらし団子がたべられる。
下鴨神社の西
下鴨本通 京都市左京区下鴨宮崎町17 電話  075-781-1460

加茂みたらし本舗・亀屋粟義、下鴨神社の西
上新粉を使い、蒸して、焼く。これに黒砂糖と醤油のタレを付ける。
下鴨神社 http://www.shimogamo-jinja.or.jp/index.shtml
下鴨神社
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