上賀茂社家町 界隈

社家町周辺の町並み、土塀と明神川、社家橋


賀茂競馬(5月5日)


社家の土塀と明神川、土塀は泥土で黄土色


草橋、秋にはススキが生える。




浜殿井堰付近、内川橋(左)と明神川、奥が上賀茂神社、右が社家町、いずれの流れも再び鴨川に合流する。


すぐき


参照
鴨川の志久呂橋下流東岸にある明神川取水口、明神井堰
 上賀茂神社に隣接するこの一帯は、江戸時代には、上賀茂神社の神官たちの屋敷町となっていた。
歴史 かつては、賀茂(鴨)氏族の後裔が社の周辺に農民として住んだ。賀茂県主(あがたぬし)は、上賀茂神社の祭神・賀茂建角身命の子孫と伝えられる。
 室町時代か安土桃山時代の頃、社の門前町を形成し、集まって住むようになる。戦国時代には、溝を築いて防御していた。「洛中洛外図屏風図」(1574)
 江戸時代、社家町は大門と木戸門によって守られていた。社家は五官(神主、禰宜など)と二十一職の社司、奉仕する氏人などがある。鎌倉時代までには、賀茂県主の後裔という「賀茂十六流」(氏、平、清、能、久、俊、直、成、重、幸、季、保、宗、弘、顕、兼→経)の中からのみ、上賀茂神社の世襲制の神職が選ばれた。
 江戸時代には275軒の社家が存在した。だが、明治維新で神職は内務省神祗(正確には示+氏)官の職となり社司、氏人は解かれ、神主家七家の制度も廃止された。
明神川 社家町(しゃけまち)を流れているのは、上賀茂神社からの明神川であり、かつては「内川」とも呼ばれた。
 明神川は、鴨川の志久呂橋下流より取水されている。川は、上賀茂神社境内では「奈良の小川」、社を出た内川橋からは「明神川」と名前を変える。
 明神川は、いまから1300年以上前に、この一帯に影響力を持っていた賀茂氏による人工的な農耕水路とする見方もある。川はかつて、下中村郷を灌漑していた「乙井川」に分流し、再びニ川が合流した後は、「泉川」となり鴨川に注いでいた。
 各家の庭には明神川の水が引き入れられている。昭和三十年代に暗渠化の話が持ち上がったこともあったという。地元では、川を守るために、年二回の河川の清掃活動が続けられている。
社家、町並 一帯には30数軒の社家と町屋が残されており、明神川、庭園の緑、山並みと一体となった調和された景観美を見せている。京都市の「上賀茂伝統的建造物群保存地区」(1988)、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定された。
 社家(豕扠首(いのこさす)様式、束貫様式)の主屋は、切妻平屋建て桟瓦葺で、妻入りと平入り棟がある。門(薬医門、腕木門、数寄屋門)、明神川沿いの漆喰を塗らない土壁、瓦屋根、石橋(社家橋)などの特徴がある。
 社家の町並みが形成されたのは、室町時代からといわれる。上賀茂神社の神官(社司と氏人)の屋敷町となった。近代以前までは神官と農民が住んでいた。江戸時代には300近い屋敷が建てられていた。社家でもっとも古いのは南大路町の岩佐家。現在の社家町に、上賀茂神社の神官はいない。
すぐき 上賀茂特産のすぐき(酸茎)漬けは、400年前から社家に代々伝わる乳酸発酵の漬物。栽培に手のかかるすぐき菜は、「すい菜」「すい茎」「すいぐき菜」「茎菜」「茎」「賀茂菜」「里菜」「屋敷菜」、原始的という意味で「貧乏菜」などとも呼ばれた。
 すぐき菜は、ある社家が、鴨川に自生していたものを発見し、庭に植えたことに始まるという伝承もある。また、諸国(信州か)から御所に献上されたものを、社家(山本氏)が拝受し庭に植えたという説。禅僧が伝えたとする説もある。
 すぐき菜は、各社家の庭に植えられ、冬に漬け込んでいた。製法は門外不出で、それぞれの家々で味に違いがあった。江戸の末から明治期になって、栽培は近郊の農家にも広がった。明治の頃、深泥池の一村が大火により壊滅し、その復興に漬物が商品開発されたという。また、この大火で焼け残った漬物桶からすぐきが生まれたともいう。明治期、聖護院かぶらと交配され、現在のものに近いものが生まれた。昔は、明神川ですぐき菜や漬樽が洗われる様も見られた。
 明治期以降、樽を稲藁で包み、また、室(むろ)による加熱補温により、乳酸発酵の促進が行なわれるようになった。また、天秤圧という漬け込みの際の加圧の製法も生まれた。なお、すぐき漬けは、すぐき菜を栽培している農家自身が、引き続き加工も行なっているという特徴があり、それぞれの家々で味に微妙な変化がある。かつては販売も自ら行なっていた。
 すぐき漬け作りは、11月半ばから12月下旬にかけて行われる。畑ひき、洗浄、面取り、皮むき、水を張った樽で塩、重石により一晩漬ける荒漬け(ころし漬け)、追い漬け(本漬け)は約1週間、室(むろ)入れは6日間発酵させる。ここで、加熱保温による乳酸発酵が始まり、独特の酸味、風味が生まれる。
 かつて作業に携わった里の女性たちは、賀茂女(かもめ)と呼ばれていたという。
 小腸で生き抜く力が強いという植物性乳酸菌ラブレ菌は、すぐきから発見された。
賀茂茄子 上賀茂の特産品、賀茂茄子(本がも)は、もとは鳥羽で作られていた。3月に苗を植えて5月下旬から7月末までに収穫される。現在は上賀茂特産野菜研究会(1988)により育成、出荷が行われている。
民芸 関東大震災後、民芸運動の創始者・柳宗悦が一時期、社家に移り住んだ。「上賀茂民芸協団」(1927-1929)が結成され、染(鈴木実)、織(青田五七良)、金工(青田七良)、木工(黒田辰秋)らの作家による創作活動が行なわれた。
魯山人 料理研究家で陶芸、書など多彩な趣味人だった北大路魯山人(1883-1959)は、上賀茂の裕福ではない社家に生まれた。ただ父は、魯山人の誕生を待たず自死している。
 
上賀茂神社 梅辻家(上賀茂神社旧社家) 西村家(社家)  大田神社  北大路呂山人誕生地 賀茂季鷹の歌碑  深泥池貴舩神社    



明神川流路

最寄の橋 御薗橋から東へ
明神川界隈

藤木社、明神川の守護神、社家町の東外れにある。クスノキは樹齢500年の巨木、左に明神川社家町。
この付近の社家には、民芸運動の柳宗悦により「上加茂民芸協団」が創設されている。二年間置かれ、その後解散となった。


明神川

錦織家 

梅辻家住宅、上賀茂社家のうちの「賀茂七家」の一つで、現存する唯一の遺構。
京都市指定有形文化財に指定。建築年代等は不詳。1838年の頃には現在の形になっていたという。建物は居室部と座敷部とからなり、座敷部は、御所の学問所を移したものともいう。


井関家
京都市登録有形文化財。井関家は社家町の東外れにある。上賀茂神社に仕えていた社家で、賀茂十六流のうちの「直」に属する。江戸時代後期の建物と推定さ れ、上賀茂社家の特徴を残している。ただ、明治時代に一部三階建てに改築された。社家住宅の特徴は、玄関(大戸口)とは別に「式台」という貴人用の入り口 が設けられている。

井関家、現在は「香袋・におい袋 いせき」の店舗となっている。

すぐき漬け「なり田」、社家町にある。


すぐき漬け農家の天秤圧(押)し風景、本漬けの際に、四斗樽に渦巻状に塩を振られたすぐき菜が重ねられていく。長さ3-4mの丸太の先には重石が下げられ、テコの原理により加圧され漬け込まれる。四斗樽に一段ずつ、塩とともに付け込まれ、渦巻状に重ねられていく。重石は400キロから500キロにもなる。
上賀茂社家町 北区上賀茂
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