河合神社





祭神は多多須玉依姫命、本宮摂社の貴船社に高?神(たかおかみ)、末社任部社(とうべのやしろ)に八咫烏神(やたがらすのかみ)


 下鴨神社糺の森の一角に、摂社・河合神社(鴨川合坐小社宅神社、かものかわいにいますおこそやけ、かものただすにいますおこそべ)がある。かつては川合社(ただすのやしろ)、只洲社とも呼ばれた。
 祭神は、多多須玉依姫命(たまよりひめ、玉衣日姫命、玉依日売命)を祀る。カモ一族の祖先を祀る社となっている。
歴史 創建の詳細は不明。
 「延喜式」には「鴨河合坐小社宅神社」とある。中世には、鴨川と高野川の合流点にあるということから、男女の仲を守る神としての霊験があるとされた。
 明治期(1887)になって、賀茂御祖神社(下鴨神社)の第一摂社となる。
 現在の社殿は、江戸時代、式年遷宮(1679)により造営された古殿を改修した。
 境内には、任部社(とうべのやしろ)があり、八咫烏命(やたからすのみこと)を祀る。
賀茂伝説 玉依姫命は、賀茂氏の祖神・賀茂別雷神(かもわけいかずちのみこと)の母。
 賀茂伝説では、貴布祢神の本殿から流れ出る貴布祢川を水源としている瀬見の小川(石川の清川、鴨川)で、丹塗(にぬり)の矢が流れ着いたのを見つける。床の傍らにさしておくと身ごもり、男児、賀茂別雷神を産む。成人を祝う神集いの際に、祖父・賀茂建角身命が「汝の父と思う人にこの酒を飲ませよ」と言うと、賀茂別雷神は甍を破り昇天した。丹塗りの矢は、乙訓の火雷命(ほのいかずちのみこと)であり、父が天上の雷神であることがわかり、賀茂別雷神と名づけられた。
ただす この地は、賀茂川と高野川が合流する三角州であり、河合(かあい)と呼ばれた。また、三角州の只洲(ただす)から只洲社とも呼ばれた。「直澄」(ただす)の字も当てられる。また、神が顕れる地、(顕、たつ、ただす)、偽りを糺す神の御座する地、植物の蓼(たで)巣、群生地との説もある。因みに、森の一角には簡易裁判所が置かれている。
 社の北には、鎌倉時代、第88代・嵯峨天皇の勅願寺として建立された鴨社の神宮寺跡、新糺池の跡がある。一帯は景勝地として知られており、「鴨の七瀬」として、鴨川、宮川(楢の川)、羽川(高野川)、瀬見の川、月輪川、御手洗川、泉河の名が挙げられている。(『烏邑縣纂書』)
鴨長明 社には、神社とかかわりの深かった鴨長明(かもの ちょうめい、かもの ながあきら)が、『方丈記』を執筆した「栖」(すみか)が再現されている。広さは一(約3m)四方であることから、「方丈」の名がある。
 鴨長明(1155 - 1216)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての歌人・随筆家。下鴨神社の神職を世襲する社家、禰宜長嗣(ながつぐ)の次男として生まれた。後鳥羽院の再興した和歌所の寄人ともなっている。父没後、賀茂社総官の鴨祐兼(かものすけかね)の反対にあい、河合禰宜を継ぐことはできなかった。
 50歳で失意のうちに遁世し、『方丈記』(1212)を書いた。これは、和漢混淆文による文芸の祖であり、日本の三大随筆の一つとして知られる。ただ、鴨長明が「方丈」に住んだのは、この地ではなく、大原野や日野であり、『方丈記』を書いたのも日野だった。
 『方丈記』の冒頭には、「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。‥」とある。川は、鴨川を表わしている。
 今から800年前の京都が、大火、辻風、福原遷都の失策による混乱、飢饉、大地震などと、相次ぐ自然災害と人災によって多くの犠牲者が出ており、都が荒廃していた様子が生々しく描かれている。特に、安元の大火(1177)では、京の都の三分の一に被害が及び、死者も数千人にのぼったと記している。
    
下鴨神社 
鴨川公園 上賀茂神社 方丈石(鴨長明)
三井社


貴布禰(きふね)神社、水の神

六社、右から諏訪(すは)社・建御方神(たけみなかたのかみ)衢(みち)社・八衢毘古神(はちまたひとのかみ)、八衢毘賣神(やちまたひめのかみ)、稲荷社・宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、竈神社・奥津日子神(おくつひこのかみ)、奥津比賣神(おくつひめのかみ)、印社・霊璽(れいじ)、由木社・少彦名神(すくなひこなのかみ)

イチョウの大木

背後は糺の森


糺の森にある神宮寺、池跡

鴨長明像

「方丈記」大福光寺本

再現された「方丈の庵

方丈内部
河合神社 下鴨泉川町
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