三条大橋 界隈

橋脚はコンクリート製だが、下流部の橋脚は石柱桁隠、高欄などは木製。


「三條橋は東国より平安城に至る喉口なり、貴賎の行人常に多くして皇州の繁花は此橋上に見えたり。」『都名所図会』


橋脚


南から見た三条大橋、三条河原、先斗町


三条大橋から南方角西岸、先斗町歌舞練場と納涼床、宝暦年間(1751-1764)、京都に遊学していた本居宣長は三条大橋からの四条河原の夕景を「星の如くにともしび見えていとにぎわし」と書いた。


先斗町歌舞練場と先斗町、三条大橋西詰南
先斗町歌舞練場は、当初1902年に建てられた。現存するのは二代目で、1927年建築の和洋折衷の建物。設計は木村得三郎で、ライト様式といわれる水平線を強調し、単一的なパターンを繰り返す装飾。また、スクラッチ・タイルという縦縞のタイルが使われている。戦後は、進駐軍のビアホールとしても利用された。
 歌舞練場は、鴨川をどりの会場として使われ、通常は芸妓・舞妓の踊り、鳴物・唄などの練習場となっている。鴨川をどりでは舞、芝居が披露され、1872年に始まった。戦時中は休演となった。戦後、春秋の二回公演となった。

 鴨川にかかる三条大橋は、平安京以来、東西交通の役割を担っていた。
 三条大橋は、室町時代前期にはすでに簡素な板橋が架けられていた。(『町田家旧蔵本』)
 本格的な構造を持つ日本最初の石柱橋が架けられたのは、安土桃山時代(1590)、豊臣秀吉の命をうけた奉行・増田(ました)長盛によるもので大工事となった。秀吉は、北条氏政・氏直父子討伐の小田原戦役の軍馬を通すために、急遽架橋させ、実際にこの橋から出陣した。1711年には、朝鮮使節入洛のために、三条橋、三条小橋、五条大橋の修復が行なわれている。
 鴨川には、2000坪の敷石が置かれ、63本の石柱の橋脚が建てられた木橋だった。当時の橋の長さは101m(102m、105m)、幅は7m(5.5m、6.7m、8.5m)。橋の高さ2.4m。幅は現在の半分、長さが現在よりも長かったのは、当時の鴨川の川幅が現在よりも広かったことによる。橋は、鴨川の氾濫で度々流出した。幕府が管理する公儀橋のためにすぐに修復された。秀吉以後、16回の架け替えがされたともいう。
 寛文新堤(1670)の築造により、三条から五条間には新しく石垣の堤防が築かれ、川幅は現在のように狭まり、七条新地、宮川町が生まれ、芝居小屋などが移動された。
 明治期(1881)に三条大橋は架け替えられた。さらに1912年には鋼鉄桁、コンクリート桁に檜作りの橋面、擬宝珠のある橋が完成した。
 近代以降は鴨川の東岸では、めまぐるしい変化が見られた。琵琶湖疏水から引かれた鴨川運河の開通(1895)、三条から五条間の京阪電鉄開業(1915)、その京阪電鉄の地下化と鴨川運河の暗渠化(1989)が行なわれた。
 「昭和10年鴨川大洪水」(1935)の際には、橋の一径間が流出し、通行は不可能になった。現在の橋は、1950年に架けられている。この際、一部木製の現在の橋の形となった。
1996年、三条と四条間の鴨川に、フランス様式の芸術橋(ポン・デ・ザール)を架ける市の計画が表明され、以後景観論争に発展した。(第二次景観問題)。その後計画は凍結された。
三条口 「京の七口」の一つ三条口は、三条大橋の東を起点としている。「大津口」「粟田口」「三条橋口」などと呼ばれた。時代によっては、鴨川の東の蹴上付近にも置かれた。豊臣秀吉による御土居の築造以後、「洛外」へと通じる重要な街道の出入り口となった。
 江戸時代、三条大橋と江戸日本橋間の東海道五十三次、三条大橋と江戸板橋間の中仙道(木曾街道)と、三条大橋は「東下り」の西の起点として重要な交通の要衝地だった。橋の両岸には旅籠、土産物屋などが軒を並べ、宿場町として賑わった。橋は、人馬が通った。橋を傷め、人通りの邪魔になる鉄輪の牛車、荷車は、橋の南の坂の「車道」(車石)を下り、鴨川を渡河した。当時、旅を終えた人は橋の西詰で迎え、見送る場合は東詰で行ったという。
弁慶石 安土桃山時代、三条河原には「弁慶石」があった。人々は力試しにこの石を使っていた。もともとは、武蔵房弁慶が、鞍馬口で腰掛に使っていた石が、洪水によってこの地まで流されてきたという説と、奥州平泉の衣川から運ばれてきたという伝承があった。また、この周辺では人々により相撲も興じられていた。(「洛中洛外図屏風図」、1574)
 なお、弁慶石町(中京区)には、「弁慶石」が安置されている。この石は弁慶が、五条大橋から投げて飛んできた、西塔から飛んできた、弁慶が幼い頃住んだ地というさまざまな伝承がある。また、三条に住んだ弁慶仁右衛門という別人の石という説もある。石は、力持ちになることができるといい、火災、病難から逃れるご利益もあるという。
処刑場 大橋東詰は処刑場、晒し場でもあった。1594年、大盗賊石川五右衛門はここで釜茹にされた。(六条河原、七条河原とも)。1595年、高野山で自害した豊臣秀次の首は、はるばる三条河原に運ばれ晒された。その遺児、正室・側室39名は市中引き回しの後に処刑された。(後の1611年、角倉了以は、秀次らの遺骸を拾い集め、弔うために瑞泉寺を建立した)。1868年、江戸から塩漬けで運ばれた新選組局長・近藤勇の首もここで晒された。
 そのほかにも、明智光秀の家老・斉藤利三、関が原の合戦(1600)で破れた西軍の石田三成、小西行長、安国寺恵瓊、大坂の陣で豊臣方についた長曽我部盛親など数多い。おもに六条河原で斬られ、三条河原で梟首された。幕末天誅の先駆けとなった九条家家臣・島田左近(1862)は四条河原で晒されている。また、その配下の「目明し文吉」は三条河原にさらされた。1863年、平田派国学者の三輪田元綱らは、等持院の足利尊氏ら三代木像の首を抜いて三条河原に晒している。朝廷を差し置いて室町幕府を打ち立てた「逆臣」という理由による。西洋学者・佐久間象山(1864)も、暗殺後に三条河原で晒された。
高札場 橋の西詰は、かつての高札場があったところで、現在も天正年間の石柱が残されている。幕末期の1866年、この制札場で事件が起きた。台頭する長州勢を断罪する幕府の高札が掲げられた。しかし、高札が抜き取られたり、墨で塗られたりした。このため、新選組が取り締まりにあたり、土佐藩士との間で斬り合いとなった。この一件は新選組圧勝で決着したが、幕府の権威を失墜させる象徴的な事件となった。
幕末 幕末期、三本木「吉田屋」に出ていた芸妓・幾松(後の木戸松子)は、禁門の変(蛤御門の変、1864)後、三条大橋(二条橋とも)下に潜伏していた長州藩士・桂小五郎(後の木戸孝允)に握り飯、志士の手紙などを届けたという逸話が残る。届けたのは、今井似幽の女中お里だったともいう。また、三条大橋のたもと縄手三条には、料理屋「小川亭」があった。女主人の小川テイは、肥後藩宮部鼎蔵ら、尊攘派の浪士を献身的に支援した。
花の回廊 鴨川三条から七条にかけて、京都府と京都市により、三条・七条間の「花の回廊」整備事業(1999)が完成し、枝垂桜、山吹などが植栽された。
 毎年4月初旬(4/6.7)には、「鴨川さくらまつり」が催される。鴨川河川敷(四条大橋-三条大橋間)のサクラ50本の並木がライトアップされ、鴨川右岸には「花灯路」が灯される。

三条大橋 架設年1950 橋種 9径間連続鋼プレートガーター 橋長73.32m  幅員15.6m

三条大橋のライブ映像
四条大橋 五条大橋 壇王法林寺
瑞泉寺 花の回廊   

橋の北方向

橋の南方向

花の回廊、三条大橋東詰
花の回廊、三条大橋東詰

西詰北、左は
天正年間の石柱「天正十七年七月吉日 津国御影」の銘、
ここには江戸時代に広場のようになっており、明治初期まで高札場があり、所司代の管理下に置かれていた。
奉行所のお触れ、人相書、駄賃、木賃銭の決まりごと、落し物などが木札に掲げられた。

擬宝珠欄干はかつて18基あった。鴨川大洪水(1935)の際に4基流出した。現在は12基(大10、小2)がある。

西詰から二つ目、南北の擬宝珠に残る池田屋騒動の際につけられたという刀傷(右の斜めに黒ずんだ部分)。
「洛陽三條 之橋至後 代化度往 還人磐石 之礎入地 五尋切石 之柱六十 三本蓋於 日域石柱 橋濫觴乎 天正十八年庚寅正月日 豊臣初之 御代奉 増田右衛門尉 長盛造之」の銘

橋の南の橋脚の一部には昔の石柱がいまも使われている。三条大橋は、石柱を橋脚に使った日本初の橋といわれている。

三条大橋東岸、川端通を下がったところに無造作に置かれているおそらく三条大橋の石柱

橋の西詰南、江戸時代の浄瑠璃・滑稽本作者の十返舎一九(1765-1831)『東海道中膝栗毛』の主人公の弥次郎兵衛・喜多八像。
 両人は、江戸から伊勢、奈良、宇治、伏見、大坂に行くつもりが、船便を間違えて枚方から再び伏見に戻り入洛した。方広寺、三十三間堂などを見物。なお、三条大橋を渡っては入洛しなかった。両人は、初日は五条大橋近くの屋根裏部屋、二日目は三条小橋近く、江戸時代には現存していた「三条の編笠屋」(戦前の「布袋館」、現在の「加茂川館」)という旅籠に宿泊した設定になっている。三日目は、壬生寺近くの茶店という設定になっている。

橋の東詰南、江戸時代の勤皇思想家で「寛政の三奇人」のひとり高山彦九郎像、皇居望拝の像、
 高山彦九郎(1747-1793)は上野国(群馬)の農民出身で、京都に遊学した。皆川淇園、中井竹山、頼春水、菅茶山との交流もあった。幕末の勤王志士に影響を与えている。京都を5回訪れ、三条大橋を通るたびに、荒れ果てた御所の方角を向いて平伏した。京都では、大学建設、尊号問題などをめぐり有力者と交流した。幕府により行動を監視され、最期は、筑紫久留米で自刃している。
第2次世界大戦以前は、小学校の修身教育で必ず取り上げられた。初代の銅像は1928年に作られている。しかし、戦時中の1944年に金属回収令で供出され、現在の銅像は1961年に再建されたもの。徳富蘇峰、東郷平八郎の揮毫がある。

納涼床、現在は鴨川に直接設置されているのではなく、河川敷を平行して流れる水路「みそそぎ川」に置かれる。床の設置にはさまざまな決まりごとがある。現在、約90軒あるという。洋食など新しい形の店も増えてきている。

三条大橋から西へ、高瀬川に架かる三条小橋、初代は1591年。明治期に石橋となった。擬宝珠は1882年に御所の高倉橋にも使われたことがあるという。1910年の改築の際に外され所在は不明。北のたもとには佐久間象山・大村益次郎遭難之碑、木屋町周辺には、幕末関連の史蹟が数多い。江戸時代の庶民の歌謡には「面白いぞや三条(さんじょ)の橋は 上は糺の森見ゆる 三条小橋に待てとは云へど どこが三条の小橋やら」。

「駅伝の碑」、三条大橋東詰北、大正期1917年、三条大橋と東京上野の不忍池間で、最初の駅伝「奠都五十周年大博覧会・東海道駅伝徒歩競争」が開催された。
先斗町歌舞練場 http://www1.odn.ne.jp/~adw58490/
三条大橋
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