四条大橋 界隈

四条大橋












四条大橋から北方向、三条大橋、北山


冠雪した北山村山 槐多「四条大橋」より「ま、綺麗やおへんかどうえ/このたそがれの明るさや暗さや/どうどっしゃろ紫の空の色/空中に女の毛がからまる‥」


西岸南右は中華料理レストラン東華菜館、ヴォーリズが設計したスペイン風バロック建築。


西岸、先斗町


北方向、先斗町、西岸の納涼床


南方向、西岸


南座と鴨川


現在唯一残る「芝居小屋」南座の正面。四条大橋東側、 この建物は、1929年に建てられている。日本最古の劇場。
 例年11月30日〜12月26日に行われる顔見世(かおみせ)興行にむけ、11月24日深夜から25日にかけ「まねき看板」が南座にかけられる。25日午前中に「まねき揚げ」が行なわれ、最後の大看板2枚が揚げられる。劇場正面には竹矢来が組まれ、役者の名を書いた独特の太字・勘亭流の招き看板(180センチ×30センチの桧板)が掲げられる。上部の庵形は「入」の字になっている。勘亭流の独特の字体も、大入りの縁起を担いでいる。向かって右が関西、左が東京の役者の名で総勢40、50人になる。この顔見世、役者の披露興行は、元禄時代に定着したとされる。
 10月の名古屋御園座、11月の東京歌舞伎座に続く、12月の南座興行は、京の師走の風物詩となっている。

 鴨の河原を舞台とした芝居は「近頃河原達引」「」九十九折」「鳥辺山心中」などがある。

屋根の最上階には官許の証である櫓がある。櫓は、5本の毛槍と一対の梵天からなる。右は「まねき上げ(揚げ)」


欄干のデザイン
 四条大橋は、四条通の東にある祇園社(八坂神社)と、西の元祇園梛(なぎ)神社という二つの社が鎮座する間にあり、四条通は祇園社の門前町として発展してきた。また、四条大橋は、祇園会とのかかわりが深い。
橋の歴史 かつての鴨川の東岸は、いまよりも広く、仲源寺の辺り、西岸は柳馬場辺りまで河原が広がり、普段は何本かの小川が流れていた。四条大橋は、公儀橋ではなく、庶民の手によって架けられ続けた仮橋だった。
 橋の最も古い記録は平安時代、1142年、祇園社参詣のために、勧進聖の寄付活動によって架けられており板橋だった。(祇園社『社家記録』)。たとえば、僧妙という勧進聖は、1154年、橋を新造している。中世の頃には橋の東に祇園社の朱塗りの鳥居が建てられていた。
 鎌倉時代、橋は太鼓橋になっていた。擬宝珠はなかった。(『一遍上人絵詞伝』)
 南北朝の時代に、架橋のための勧進田楽(1347)が催された。1374年にも架けられている。1349年の寄進のために行われた「能くらべ」では、足利尊氏も観覧している。だが、桟敷が壊れ、多くの死傷者が出たため「桟敷崩れの田楽」といわれた。1450年、祇園会で祇園神輿が御渡した。その後も鴨川の洪水で幾度も流出し、その度に、氏子の寄進で架け替えられた。
 室町時代、四条大橋は二重になっていた。(『町田家旧蔵本』『洛中洛外図上杉本』)
 室町時代、「寛政の大飢饉」(山城大飢饉)(1461)の際、飢饉と疫病、戦乱により、8万2000人もの餓死者が出ている。時宗の僧・勧進聖の願阿弥は、四条橋、五条橋、油小路において多くの餓死者を葬っている。それでも鴨川には、遺体が溢れ、川の流れを塞いだという。この後、両橋などにおいては、五山の僧による施餓鬼も相次いで行なわれた。
 室町時代、四条橋東側の大和大路角には、鴨川の治水の神・禹王社があったという。
 室町時代、四条、五条橋の近くには、「河原在家」という庶民の家々が建ち並んでいた。このため、洪水の際には大きな被害が出た。
 安土桃山時代、1576年、鴨川の洪水後に、織田信長の命により橋は修復されている。
 四条河原には、中州を挟んで橋が二つ架かっていた。いずれも、祇園会のために造られたもので、一つは粗末な船の上に板を渡した浮橋だった。(『洛中洛外図屏風』1574)。
 浮橋といわれる仮橋が、本格的な石橋に替わったのは、幕末の1857年になってからだった。これには下京の町衆、祇園社の氏子、祇園町新地の人々による募金と労力奉仕があり、石柱42本の板橋(長さ90m、5.5m)が完成した。
 四条橋近くにも牛車の通る車道があった。橋を渡ることが出来ない荷車は、大和橋の南詰から白川に沿って鴨川に入っていた。
近代以降 明治期、1873年の錬鉄桁「くろがね橋」など何度か架け替えられている。この石柱鉄橋の材には、廃仏毀釈によって生じた寺院の銅製仏具類が使われた。京都府の補助を受けたが、工費の半分は芸舞妓らが負担している。橋の欄干には、祇園の串団子と桜花散らしの意匠が施された。渡り初めには、祇園の芸妓が400人参加して盛大に祝った。経費の回収のために橋のたもとに番所を設け、通行料を徴収した。人は一銭、車馬は二銭で、このため「ゼニ取り橋」と評判が悪く、三年で橋の管理が府に移された。
 明治期、1897年2月、四条河原で、染色技術者の稲畑勝太郎は、フランス留学から帰国後、仏人リュミエール兄弟の発明した「シネマトグラフ」の試写会を行った。この日本初の活動写真上映は失敗しているが、その後、島津製作所に変圧器の製作を依頼し、新京極東向座で公開映写を成功させた。
 なお、かつて「竹村家橋」という細い木造橋が四条大橋の北一町ほどのところに架かっていた。橋の西詰めにあった料亭「竹村家」が私費で架けたことからこの名が生まれた。
 1912年に、鉄筋コンクリート製、ブロンズ製の高欄の橋に架け替えられた。これは、新しく開通した市電が通る軌道敷の橋であり、幅員も広げられた。橋全体の工事が完了したのは、翌1913年。設計は、東大教授柴田畦作。意匠は森山松之助、山口孝吉。「セセッション(ゼツェッシヨン)式欧風意匠」といわれる直線的、実用的で斬新なものだった。七条大橋もこの三人の手による。
 なお、日本初の営業運転した市電が廃止に伴い四条大橋を最後に渡ったのは1972年。
 鴨川大洪水(1935)の際には、流出はしなかったものの、基部の河積が大きな被害を受けた。また、流木が橋桁を塞ぎ、周辺の冠水被害が拡大している。橋はコンクリートのアーチ橋のようになった。その後、1937年に鋼板桁に架け替えられている。
 第二次世界大戦中、欄干などの鉄材は供出となっている。その後木造となっていたが、1960年に、公募により田村浩デザインの現在のものに修景された。
1996年、三条と四条間の鴨川に、フランス様式の芸術橋(ポン・デ・ザール)を架ける市の計画が表明され、以後景観論争に発展した。(第二次景観問題)。その後計画は凍結された。
阿国・歌舞伎 四条河原は、南北朝以来の市民の歓楽地だった。勧進田楽や猿楽をおこなう市民の遊散所でもあった。当時の鴨川の東岸は、現在の大和大路まで、西岸は現在の河原町辺りまであるという広大な広場であり、そこに芝居小屋などが立ち並ぶ都の一大遊興地だった。
 1582年、10歳の出雲阿国(いずものおくに、於国、国、久仁)は、奈良春日若宮で「ややこ踊り」という少女踊りを踊った。1600年、京の公家の前でも踊っている。1603年、北野神社で男装した阿国の「歌舞伎踊」が披露され人気を博した。その後、四条祇園社の近くでも興行した。ただ、四条河原での阿国による興行はなかったというのが定説となっている。四条河原町の小屋掛けで行われたのは、阿国の踊りを真似た六条柳町(六条三筋町)の遊女による総踊り、遊女歌舞伎だった。
 阿国は、派手な衣装をまとい、黄金の太刀に、首には十字架を掛けていた。若衆に扮した阿国が、女装した若者相手に恋のさまを踊るという趣向だった。また、当時の世相や風俗、事件などもたくみに踊りに取り入れ、都人の「天下一の女」との評判を取った。
 もともと阿国は、五条大橋(いまの松原橋付近)の河原で小屋掛けしていたともいわれている。その後、豊臣秀吉が伏見城への通行の邪魔になるとして、大村梅庵により四条河原に移させた。阿国は出雲国松江に生まれ、出雲大社の巫女(アルキ神子、歩き巫女)となり、諸国を巡業したともいわれているが異説も多い。阿国、名古屋山三(名護屋山三郎)らは、歌舞伎(傾奇が語源)の創始者とされている。阿国は1604年に京都を去り、地方巡業を続けた。1607年に江戸城に招かれて踊った後の消息は分かっていない。
 1608年、四条河原で遊女による女歌舞伎が初めて披露された。(遊里は1589年に二条柳町に開設され、1602年に六条三筋町へ移転、1640年には島原へ移転させられる)。その後も、遊女歌舞伎(1629年禁止)、若衆歌舞伎(1652年禁止)、野郎歌舞伎などが次々に現れ人気を集めたが、幕府により「風紀を乱す」として度々禁止され、野郎歌舞伎を元にした女形による現在の歌舞伎となっていく。
 1615年頃、京都所司代は七つの櫓(芝居小屋)を許可した。四条通南に三座、北にニ座、大和大路西にニ座、それに現在の南の芝居(南座)だった。この頃から、四条河原は賑わいを増し、さまざまな遊興が繰り広げられる。遊女歌舞伎、操り人形浄瑠璃、能、楽器演奏、弓技場、動物などの見世物、犬の曲芸、軽業(放下、蜘蛛舞、蓮飛び、枕返、輪脱)、相撲の小屋掛けも見られた。その後、それぞれの櫓が火災などで焼失し、明治期、1893年には「北座」(北の芝居)も火災に遭った。北座は、四条通の拡幅工事でついに廃止され、南座だけが今に残ることになった。
 顔見世は、17世紀の末に始まったという。大正期以来、東西の役者が揃うようになった。興行は一度も耐えることなく続き、第二次世界大戦中の1944年に高級享楽停止令が出されたが、翌年には除外され、戦時下でも300年以上の歴史を持つ顔見世興行は続けられた。1906年、南座は松竹の経営になった。現在の建物は、1929年に新築されている。
祇園 祇園が祇園社参詣人相手の遊興地となったのは、江戸時代の元和年間(1615-1623)で、1665年には幕府によって茶屋の営業が認められている。寛文の鴨川新堤工事(1670)以後、三条から四条にかけて「新地」の開発が進んだ。それまであった西岸の茶屋が東岸に移され、芝居小屋は東岸、見世物小屋は西岸に分けられた。四条河原に「ホタル茶屋」(1681)も店を出している。宮川町に「陰間茶屋」(1751)が店を開いた。
戦場・梟首 かつての鴨川は、いまよりも河川敷が広く中洲もあった。そのために、鴨の河原は数々の戦場ともなった。保元・平治の乱(1156、1159)や、幕末には、勤皇佐幕入れ乱れた抗争の舞台ともなった。戦になると見物人が出たという。見物人は、逃げ出した武将に対しては追い剥ぎに早代わりしたという。
 四条河原でもまた梟首がおこなわれた。幕末の天誅第一号となった島田左近(1862)、本間精一郎(1862)もさらし首となった。
積塔会 明治期以前まで、四条河原の西岸では、積塔会(しゃくとうえ)が行なわれていた。目の不自由な人々が集まり、河原に石を積み上げ、祖先の報恩供養を行なっていた。
 14世紀から、目を患い琵琶の名手といわれた仁明天皇第四皇子・人康親王(さねやすしんのう)を祖神とした、総検校以下の人々が、四条河原で、「積会」(旧暦2月16日)、「涼みの塔」(旧暦6月19日)を行った。職屋敷での琵琶演奏後、四条河原で石を積み上げ、香華を手向けていた。
納涼床 納涼床(のうりょうゆか)については、室町時代にすでに河原での夕涼みが行われていたという。豊臣時代(1580-1590)、裕福な商人が夏に遠来の客をもてなすのに、四条、五条河原付近の浅瀬に床几を置いたのが始まりだともいう。中洲に板の小橋を渡し、浅瀬にも床几が置かれた。寛文年間以降、護岸工事により生まれた東西両岸にも店が出た。最盛期は元禄の頃で、三条より松原間の河原に設けられ大いに賑わった。
 納涼床は明治以後にも引継がれた。明治期には、現在の高床式ばかりではなく、床机形式の低い床もあり、川の上に直接置かれていた。だが、増水時に被害があり、その後中止になった。琵琶湖疏水(1894)の完成後、高床式も東岸は中止となり、中州も1911年に四条大橋に市電が開通した後は中止となった。
 昭和10年大洪水(1935)の後は、鴨川の補修工事によって造られた水路の「みそそぎ川」(「禊川」、みそぎがわ、賀茂川の別称でもある)の上に納涼床を設けるようになった。「みそそぎ川」は鴨川の水を取り入れており、鴨川の分流となる。床は、府の許可が必要で、鴨涯保勝会により、管理されている。床開きは5月1日から9月30日まで。
祇園祭 祇園祭の神幸路として、神輿の渡御、神輿洗の神事などの際には、「きよめの水」が鴨川から汲み上げられる。7月10日の夜、四条大橋で神輿洗のお祓いが行われる。
 四条から五条(現在の松原橋)にかけての鴨川は「宮川」といわれている。現在も、「宮川町」「宮川筋」の名が残っている。
文学 島崎藤村(1872-1943)の『新生』には、四条大橋界隈の描写がある。フランスから帰国した藤村は、京都にしばらく滞在している。有吉佐和子(1931-1984)には『出雲の阿国』がある。
景観論争 現在の四条大橋(1913)が架けられた際、近代的なデザインに対し、景観に関して様々な批判が起きている。
 四条大橋と三条大橋の間(新門前町通付近)の鴨川に、パリのポン・デ・ザール(芸術橋)風の橋を新設するという計画をめぐり、景観論争(1996-1998)が起きた。 シラク仏大統領の提言を受け、京都市は、1999年の「鴨川人道橋」完成を目指した。しかし、市民の広範な反対運動が起こり、その後白紙撤回されている。
花の回廊  鴨川三条から七条にかけて、京都府と京都市により、三条・七条間の「花の回廊」整備事業(1999)が完成し、枝垂桜、山吹などが植栽された。
 毎年4月初旬(4/6.7)には、「鴨川さくらまつり」が催される。鴨川河川敷(四条大橋-三条大橋間)のサクラ50本の並木がライトアップされ、鴨川右岸には「花灯路」が灯される。

四条大橋 架設年1942 橋種 3径間連続鋼プレートガーター 橋長64.8 幅員24m 

壇王法林寺 八坂神社 祇園祭 三条大橋 花の回廊 

7月10日、鴨川にかかる四条大橋の上での神輿洗


【参照】阿国(先頭)、時代祭(10月22日)より

初来日400周年に再現された朝鮮通信使の行列、四条大橋を渡る(2007.11.3)、朝鮮通信使は1607年から1811年まで12回、400〜500人の一行が漢城(ソウル)から対馬、京都、江戸(時に対馬止まり、京都止まり、また日光まで行くこともあった)へと向かった。往路は三条大橋、三条小橋、復路は五条大橋(現松原橋)を渡った。

四条大橋東詰北、阿国像
「かぶき踊の祖 出雲の阿国 都に来たりて その踊を披露し
 都人を酔わせる」の碑文
刀脇差、ロザリオの傾き姿。
「此比、かぶき踊りと云事有、是は出雲国神子女名は国、但非好女、仕出、京都へ上る、縦(たとえ)ハ異風なる男のまねをして、刀脇指衣装以下殊異相、彼男茶屋女と戯る体有難くしたり、京中の上下賞翫(しょうがん)する事不斜、伏見城江へも参上し、度々踊る、その後学之、かぶきの座いくらも有て諸国へ下る、但江戸右大将秀忠公は終不見給」(『当代記』)

「阿国歌舞伎発祥乃地」の碑、四条大橋東側、
南座の西入り口
1953年に建立

前進座の「出雲阿国」南座公演

「北座跡」の碑、川端通四条上ル東側
四条大橋北、西岸の「みそそぎ川」に組まれた納涼床、遠景は四条大橋

車石跡、四条大橋上流東岸かつて牛荷車はここから鴨川を渡った。

【参照】行願寺(革堂)にある車石の遺構、この溝(本来はもう一つある)に沿って荷車が川に出入りしていた。
与謝野晶子の歌碑、川端四条上ル東
「四条橋 おしろい厚き 舞姫の 額ささやかに 打つ夕あられ」

東詰南にある「京 ゆたかもの 雅」の碑

【参照】かつて四条大橋を渡っていた市電
南座  http://www.shochiku.co.jp/play/minamiza/gekijyo/index.html
納涼床の鴨涯保勝会  http://www.gnavi.co.jp/yuka/
四条大橋
(c) Copyright Everkyoto,Kyoto Kamogawa fuko, 2006-


inserted by FC2 system